「風死す」 全四巻 書下ろし長編小説への最後の挑戦を終えて

濡れ手で粟のぼろ儲けしか念頭にない出版社の、万人向けをよしとする低俗な商売根性と、簡単に酔い痴れたくて水で薄めた安酒のごとき薄っぺらな作品に手を出しつづける、いかにも安直な読者の根深い依存性、それに加えて、救いがたいほど稚拙な水準からいつまでも脱却できず、露骨な忖度の泥土に塗りこめられた、反自立的で没個性的な国民性。

白人社会への憧憬とコンプレックスや、みずからを集団へ埋没させる能力に長けた昆虫的な生真面目さにより、他の文化と同様、いかにもそれらしく表面を繕えるまでの段階にはどうにか達しても、一個の独立した存在であらんがための前進はあたわず、実質を伴わぬ繁栄が急速に萎んでゆき、結局のところ名のみになってしまった、明治以降の日本文学。

これではならじと、せめて進化と深化の入口くらいまで近づけねばと、そんな浄化の気配など微塵も感じられないお粗末な状況を承知の上で、徒労の使者の嘲笑を気にしながらも、半世紀を優に超える、めくるめく歳月を、ひたすらその一点に注ぎこんできたつもりである。

そうはいっても、若さと弱さと愚かさゆえに、あるいは、見習うべき書き手が一人もいなかったことにより、ときとして業界の核を成す商業主義に吞みこまれかけたりすることが間々あった。

しかしその都度どうにか正気に立ち返り、潜在する目利きの読み手たちの声なき要望にどうにか応えようと、真っ当な文学の道をめざそうとする者であるならば、なんとしてもやり遂げねばならぬ、超ハイレベルの作品の神髄へ迫らんがための決意の繰り返し。

豊かな表現力と、卓越した構成力と、高い技術力、そして何よりも、それらを根底で支える、一般社会人として生きることはまずもって不可能なほど破綻した性格が源の、そのくせ、先天的な温もりにくるまれた、しぶとい精神力。

純粋にして真摯な創作者であらんとするのであれば、元来そう在るべき理念をひしとかき抱き、執拗に追い求めたくなる、常に革新的でなければならず、透明度と純度ゆえに存在すら知られていない、まだ見ぬ高峰。

そしてこの度、果てしない試行錯誤と、摂生の日々が研ぎ澄ましてくれた直感と、修練の積み重ねによって独自に編み出した新手法、名付けて〈記憶の流れ〉の粋を集め、ともすると通俗的な娯楽の側へ偏りがちな物語性の呪縛を脱することで、混沌の人界における実態に限りなく近く、脈絡の欠落それ自体が生々しい様相と躍動感であふれ返った、至難の権化たる主峰に敢然と挑み、文字通り没頭の数年間を一心不乱にくぐり抜けた後、ようやく登頂に成功した。

大小さまざま、幸不幸さまざまな体験と経験の絶え間ない思い出のアトランダムな噴出という、生きているあいだは意志と無関係に脳内に発生しつづける、意味不明な記憶の断片がもたらす際限なき旋風を、最小限の混乱に押しとどめようと、フォルムと文章の長短のけじめによって整理と制限を加え、芸術的な秩序と抑制を与えることで、実像を遥かに上回る三次元の映像ホログラムを四次元の現世にくっきりと浮上させ、とうに限界に達していた、明瞭さと明確さが狙いの、辻褄合わせの出来不出来を問うばかりの、小説の大前提とも言うべきストーリー性という障壁を根底から突き崩し、かつてなかった臨場感が生動する、二十一世紀にふさわしく、次世紀へも影響を与えそうな〈超越の文学〉を、とうとうここに誕生させたのではないかという、確かな手応え。

そうした誇らしい実感を得たにもかかわらず、改めて長大な二千数百ページを振り仰ぐたびに、過去に覚えた満足感とは明らかに異なる、必ずしも喜んでばかりはいられない、摩訶不思議な達成感に包みこまれた自分に戸惑っているのは、いったいどうしたことだ。

人工美と自然美の調和を図る造園と同様、現実と想像の融合をめざすランドスケープ・アーキテクチャーとしての自覚を年齢と共に募らせ、想像と創造のジャングルを独力で懸命にかき分けてきた者にとっては、こうしたなんとも奇妙な印象こそが、曖昧模糊とした最終的な充足なのであろうか。

もしそうだとすれば、行き着くところへ行き着いたことになってしまうが、だからといって、このままあっさり納得していいものなのだろうか。

 

思い返せば、波乱万丈の、太く短い、劇的な人生を夢見て、社会規範や法律などなんとも思っていなかった、怖いもの知らずの二十代の前半、何をとち狂ったのか、発作的な衝動と運命的な誘導に従って、憧れるどころか軽蔑の対象ですらあったはずの書き手の立場へといきなり舵を切り、無頼派なんぞと自称してダメ人間を競い合う、文学をダシにして遊び惚けているとしか思えぬ、そのくせいやに嫉妬深い、文人気取りの集団に「一発屋」の陰口が渦巻くなかで、いかにもこそばゆい、浮きに浮いた、且つ、薄気味の悪い雰囲気が漂う、社会的成功への邪心が見え見えの薄っぺらな世界へ進んで取りこまれた。

それでもなお、いわゆる文学青年や文弱の徒ではないことによって、どうにも納得しがたい、あまりに自虐を優先させたがる反芸術的な潮流には巻きこまれず、普通の大人の男としては当たり前の先駆的な姿勢を保ちつづけられ、複雑な内面を単純な外面で装いながら、心中密かに「悪に強いは善にも強い」という下世話な巷説を拠り所にし、要するに人格者ではないことをバネにして、人間らしさの在り処を探る作品の理想像に迫ってみようと腹をくくった。

爾来、敢えて孤塁を保ち、どこまでも後ろ向きの葛藤や他人の同情を当てにする苦悩のための苦悩などは売り物にしない、自我をすっぱり切り離すことで初めて普遍的なテーマを俯瞰できる、自己陶酔とはいっさい無縁の、抑制と躍動を同居させたクリスプな文体による執筆に専念してきた。

どう間違ったところで、どっぷりと浸かる気持ちなど絶対に湧いてこない、違和感と嫌悪感だらけの、有り体に言えば、権威主義や派閥主義や出世主義や事大主義に毒された、失望落胆を禁じ得ない、芸術家精神にあるまじき腐敗と堕落と卑俗の文壇へ首を突っこんでからこの方、じめじめ、どろどろした居心地の悪さにのべつ付きまとわれ、地方への移住という距離の取り方によって、絶え間ない苛立ちをどうにか鎮めてきた。

その反動もあってか、古今東西の心ある数少ない書き手たちが志向しつづけた、高次にして圧倒的な作品を生み出そうとする、使命感にも似た目標を高々と掲げてはみたものの、残念ながら、その途中、失敗に終わるかもしれない予想と、食べてゆかれなくなる不安の板挟みに苦しんで、つい横道へ逸れることもしばしばだった。

それでも、はっと初心に返るたびに呼び起こされた体勢の立て直しが功を奏し、次第に方向性が確立されて真剣みが増してゆき、最新作の「風死す」を物した直後に、ともあれ終着点らしきところへ辿り着けたのではと、あまり素直に認めたくはない、すっきりとしない答えに立ち至った。

しかしながら、ついに止めを刺したと気負える心地までは及ばず、尽きせぬ創作意欲をどこへ集中していいのか見当もつかない、なんともふらふらした感覚に弄ばれているうちに、身の置き所さえ怪しくなる迷路へぐいぐいと引きずりこまれ、次作への足場がなかなか定まらぬ、そんな浮遊感に悪酔いしそうな数日間を経た後、かつて味わったものとはまったく違う、感慨とも言えない感慨の雨が、わが文学の庭にどっと降り注いできた。

すると、あれほどあやふやだった決断力が瞬時にして焦点を絞りこみ、たちまちにして「まさに、これがそれだ!」という揺るぎない結論が導き出され、その確信がしっかりと固定化されたまま、当初と同じ熱度の高揚感をいまだに保持している。

 

そう、漠然ながらもっとずっと先のことと考えていた、文筆生活における最大の課題としての金的のひとつを、いつしか知らず射止めてしまっていたのだ。

ひっきょう、絶大なる表現効果によって世界的規模で文学を席巻した、かの〈意識の流れ〉の作法をさまざまな形で取り入れた作品群をまとめて抜き去り、向こう受けとは対極に位置する、未知だからこそ深遠な領域にとうとう分け入ったことを、どこの誰によって謙虚さの欠落を糾弾されようが、きっぱりと自認できそうな厚かましさに包まれた。

ひとえに、このための五十数年間であり、このための孤軍奮闘であった。

およそ尋常ではない、こうした熱中こそが、易きに流れる堕落の蔓延が極に達して、そんなことをつづけていればこんなことになるのは当たり前という衰退の坂を転げ落ちてゆく、所詮は〈文学ごっこ〉に興じているだけの業界から完全離脱するための、実に有効な術であった。

されど、山頂に立って初めて彼方に望める、さらに高い山が完全に見えなくなってしまう、燃え尽き症候群でもなければ、生前葬にも似た、いやらしい自己顕示欲の発露でもなかった。

それが証拠に、期待にたがわず今回もまた強烈な求心力を秘めた山が分厚い雲の遠くにしかと認められ、おぼろげながらも魅惑的な存在感を放って、わが視座の中心にすっくと聳え立っていた。

併せて、これまでの数倍の努力と研鑽を粘り強く積めば必ずや登攀できる、否、そうせねばならぬ覚悟へと激しく駆り立てられた。

と、そこまでは脱稿直後の流れの一環であって別にどうということもないのに、なぜか今回はあの爽快な武者震いが発生しなかったのだ。

そしてしばしの動揺が収まる頃、理由と原因がだしぬけに突き止められ、そのあまりの衝撃に打ちのめされて茫然自失から抜け出せない体たらくがひとしきりつづいた。

行く手前方に霞んで見えている、怖気づくほどの険しさを具えた岩壁をよじ登るために不可欠な時間の問題がみるみる深刻化し、寄る年波には勝てないという自明の理がさっと脳裏をかすめるや、単なる尻込みではなくて、どうやっても振り払えぬ諦念が畏怖となって全身を駆け巡った。

まさしく神域に属す、驚愕の高嶺を征服するには、運よく最短コースを選択できた場合でも、あと四半世紀や半世紀くらいはかかってしまうだろうという予測は、幾度計算し直しても楽観的な答えは出なかった。

同時に、おめでたくもすっかり亡失していた、所詮はありふれた真理にすぎない寿命の壁にがつんと突き当たり、無理なものは無理という冷徹なる常識に行く手をぴしゃりと閉ざされてしまった。

よしんば能力と体力と気力が充分に残されていたとしても、肝心の歳月が不足していてはいかんともしがたく、まさにお手上げだった。

未完を潔しとしない性分からして、肉体の衰えからくる中断や遭難はどうあっても避けねばならなかった。

まして、すでに登頂した山と似たり寄ったりであるならば、一部の読み手がどれほど熱望したとしても、馴れた足取りで易々と登ってみせるのは、職業作家としては正しくても、純文作家としては間違っているという頑なな信念がそれを許さなかった。

言い方を変えれば、この国の体制べったりの文化全般における、卑劣にして愚劣な在り方を大いに怪しみ、芸術家の端くれとしては基本中の基本である反逆の姿勢を堅持して、進取の気性に富んだ開拓者であらんと心掛けてきた書き手としては、定まった時空間においてやれるだけのことをやってのけ、あげくに、活動の道を物理的に遮断されたのだ。

そうはいっても、少しでも高い山頂へ惹きつけられる、がむしゃらな熱願に、減衰の兆しなどは微塵も認められなかった。

だが、星から生まれて星へと還る、一個の儚い生命体としての宿命的な有限性の前に、独り肩を落としてぽつんと佇む後期高齢者を自覚しないわけにはゆかなかった。

感無量のひと言ではけっして片づけられない、かなり厄介そうな心境。

さりとて、不快さを寄せ付けぬ好ましさが特徴の、うきうきするような虚脱感。

芸術の理想郷へ迷いこんだ者が想い描く遠大な目途のゴールとは、こうしたメリハリに欠けた反応こそが避けて通れぬ終焉のしるしなのであろうか。

 

せめてもの救いは後進たちへの嘱望だった。

幸いにして、現実逃避と自己逃避が主たる目的の、本の虫だの活字中毒だのと揶揄され、あくまで自分に好都合な妄想に心のみならず魂まで支配されている文学愛好者らが、醜悪なほど無邪気に戯れている、恥ずかしい限りのナルシシズムと、劣等感の裏返しにすぎない夢と憧れに蝕まれた、軽佻浮薄な恋愛至上主義とはきっぱり一線を画す、人間とはなんぞや、その生き方とはなんぞや、もしくは、その死に方とはなんぞやという原理的な主題における核心と本質に、ひらめきときらめきの書き言葉をもって肉薄し、金銭と名誉抜きで、人生のための文学であれ、芸術のための文学であれ、高質にして硬質な王道を敢然と突き進める、有能な書き手たちが周辺にごまんとひしめいていた。

売れる商品を生み出せないという、ただそれだけの理由で黙殺され、排除されつづけてきたかれらのために、売れる商品を作ったことで文豪だの巨匠だのと実力以上に持ち上げられた者たちの傑作だの名作だのとやらを端から相手にしないタイプには最適の、きわめて具体的で実践的な文学塾や、お祭り騒ぎとは無縁の、何よりも文章表現そのものに力点を置いた純粋な文学賞や、一個の独立した人間として残酷な社会にどう対峙して対処すべきかについて理解してもらうためのサロンなどを設け、親しみやすく馴染みやすい導入部を明示したことによって、長いこと眠っていた、当人も気づいていなかった才能を見事に開花させ、感性を磨きに磨いた新進気鋭が、これぞ文芸と呼べる作品を引っ提げて続々と台頭し、目を見張る勢いをもって、この世の果てまで広がっている言語表現の地平をどんどん切り拓きつつある。

不幸にも、家元制度的にして既得権益的な、実のところ文学のなんたるかを毛ほどもわかっておらず、わかろうともしない、単に俗世間的な地位を得ただけなのに、ただそれだけなのに、その道の専門家面をして定年退職までつづけている、どこか役人の雰囲気を漂わせている、呆れ果てた、所詮は勤め人にすぎぬ大手の編集者たちの、何を勘違いしたのか粋人や好人物を演じることに余念がないくせに、実際には陰湿で陰険な出世競争にからんだ冷酷で打算的な仕打ちによって、真の逸材が明治以降世間の片隅に追いやられ、青いまま枯らされてきた。

早い話、近代文学がちゃんとした文学に育たなかったのは、作文程度の代物を文学と称して憂き世を逃れる玩具として、圧倒的に数が多くて質の低い読み手に売りつづけてきたからだ。

事程左様にこの島国は、平均的な生き方を好み、突出した存在を忌み嫌い、そのせいで全体が疲弊へと堕ちてゆく、後退的にして消滅的な宿命を背負っている。

ともあれ、絶滅寸前の危ういところで難を逃れた、私の予想外の喜びは、真の書き手の数が増すばかりで、留まるところを知らぬ点にあり、しかもかれらがそれぞれ鮮烈な個性の持ち主であり、文学の黄昏や活字離れを逃げ口上にする時代を一笑に付し、一蹴するだけの力量と気迫をたっぷり持ち合わせ、何よりも年齢が若いことに起因していた。

近い将来、私が諦めざるを得なかった未踏峰に挑戦し、その頂を踏みしめ、もっと高い山をめざす傑物が台頭してくることは請け合いだ。

優秀な人材の育成と輩出に今後ますます尽力しようとするのは、とりもなおさず、文学の寿命が永遠であることを再認識してもらうための当為の行為にほかならず、この一点ですらも、わが余生に熱を帯びさせずにはおかない。

 

そして、なんだか寂しい、なんだか嬉しい、無自覚の圧迫感から解き放たれた夢心地が尾を引く夜明け、長年にわたって見上げてばかりきた、高きものを追う習慣がすっかり根付いてしまった視線が、蓄積された疲労のせいもあったのだろう、ひとりでに下がり始めた。

するとそのとき、まただしぬけに別の衝撃に貫かれ、眼下に広がる無数の渓谷や人里や盆地を埋め尽くす、形而上学的な気高さのたぐいはさほど感じられなくても、なぜか無性に心が惹かれる、ありとあらゆる自家撞着を背負った人間ならではの美醜が入り混じった魅惑の光景に、あっという間に吞みこまれてしまった。

情念を込めて咲き乱れる、楚々としながらも本能の核心を突く草花にびっしりと覆われて、真情の水がせっせと流れ下る、緑の谷。

底なしに放埓で、種々雑多な不羈がひっきりなしに飛び交う、悲喜こもごもの、溌剌たる命の営みの空間。

厳しい現世ではあっても、必ずや楽観の余地を発見できると、そう真顔で言い切れそうな、本来の存在意義を表象して止まぬ、切な過ぎる人類の、豊か過ぎる情操から生まれた、劇的に過ぎる世界。

人間社会を占める蠱惑的な千変万化の幽谷に魅入られていると、ほどなくして、ガラガラという音をはっきり聞いたかのごとき変革が胸のうちを奇襲し、知的陶酔の在り方が別次元へと移行する、大ジャンプの刹那が、手で触れられるくらい如実に伝わってきて、柔軟性に富む希望の渦動へといざなわれた。

ややあって落ち着きが取り戻され、今度は創作者としての在り方と前進の方法に大きな異変が生じ、つまり、登攀ではなく歩行へと心が移り、さすらうのではなく、さまようのでもない、清濁併せ飲む、大らかな心地でのそぞろ歩きを存分に楽しんでみたいという、自由な概念と奔放な発想がむっくりと頭をもたげてきた。

一時の気紛れなどではなく、どうやら本気のようだった。

そうした喜ばしい意外な方向転換を迎えたことにより、文学への向き合い方と関わり合い方がなお間口を広げて奥行きを深め、地道に培ってきた文章力を恃んでゆったりと歩を進めるならば、それはまたそれで〈書き甲斐〉でいっぱいの、途方もなく鮮烈な作品に巡り合えそうな、根拠なき指針と自信に先導されて、長くはないはずの残生に適う方向性がぴたりと定まった。

今後は小説という形式にこだわらず、詩歌や哲学や音楽や美術や思想や宗教のみならず、未来学や量子力学といったジャンルまで全部ひっくるめた、「言葉を用いた、斬新な芸術」という統合的にして未開発の領域に立ち向かえば、視覚的で聴覚的で触覚的、しかも超感覚的な文学を発見できるのではないかという、濃厚な実現性がすぐそこにひときわ鮮明に拓けたのだ。

従って、この先に展開させる眼目は、奥床しさの極致とも言うべき日本語の秘奥へ感官のすべてを注入し、スナップショットを撮るような臨機応変さを活かし、即興性に触発されたり誘発されたりしながら、言霊そのものによって構成された、前にも増してオルタナティブでプロテストな、大宇宙に匹敵する精神宇宙となるであろう。

それらの作品を、偶然にしては運命的なきっかけでようやく知り合えた、信頼に値する唯一無二の編み手と起ち上げた版元から次々に世に送り出すことで、文学界と出版界における未開の地を開拓しようと意を決するや、創作意欲が倍加されて再燃した。

肩の力を抜いた清遊ではあっても、単なる言葉の綾に終始せず、ときとして、隠された人間のおどろおどろしい側面を暴き出すことだってある、それでいて、最初から最後まで崇高なるわくわく感が全編に漂い、なんとも心地よい刺激と緊張から飛び散る、優れた読み手たちと共有可能な、胸に迫る感動の火花。

この歳になってさらなる飛躍と発展の可能性に期待できるとは、よもや思ってもみず、その充足感の持続の分だけわが命は長らえ、生の幕が降りるぎりぎりまで途切れない上梓となるであろう。

 

結果として文学的な存在であったのかもしれぬ私は、こうした思いも寄らぬ人生の様変わりに出くわすまで長編小説を軸に書きつづけてきたことになり、そしてこれからも、新境地を前面に押し立てた言語芸術の醍醐味を糧にして生きつづけることになろう。

庭造りと思索に明け暮れる枯淡の日々へは逃げこまず、どこまでも先鋭的な立場を継続できることは、わが生涯において唯一誇れる自慢なのかもしれない。

さもなければ、武者震いを遥かに凌ぐ感激の歓びに、これほどまでに打ち震えているはずがない。

しかし、未来はあくまで未定であり、仮定にすぎない。

ひょんな発端からとんでもない展開となる残生だって少しも珍しくなく、わが老後にしても流動的でないわけがなく、だから、いかなる場面転換をも受け容れ、甘んじる覚悟はすでにして整っている。

突発的な激変との出会いのなかにこそ、命の糸を懸命に紡ぐ価値が潜んでいるように思えてならない、なんとも爽快な転換期を迎えた、七十八歳の夏が今、さらさらと流れている。

ちなみに、読者に阿る回数がいかに少なかったにせよ、当然ながら自分自身のためにのみ書いてきたのではなく、きっとどこかにいてくれる波長の合う第三者をのべつ意識していたことは否むに否めぬ事実である。

そこでこの場を借り、密度の濃い文体とプロトタイプの形式によってそう簡単には読み解けない、一連の不愛想な長編書下ろし小説にひとかたならぬ関心を払いつづけてくれた、精神の自立ゆえに誰の影響も受けずに良し悪しの判断が可能な、とびきり優れた眼識の持ち主たる熱心な読み手に対し、けっして偽善や儀礼ではない、正真正銘の謝意をそっと表したい。

権力者側が振る舞うケチな飴や、支配者側が振り回す鞭なんぞには絶対屈せず、頑として個人の自由を標榜する、理知的な存在のホモサピエンスとして過酷な世を生き抜くための、確信に満ちた力強い言辞で組み上げられてゆく、〈自立と反骨の流麗なる文学〉。

知慮と情調に彩られた、その輝かしい灯火が、破滅へと転落しがちな国家や社会がもたらす不条理な悪の力や、サイコパスなまでに幼稚なナルシシズムが垂れ流す安直な美学によって吹き消されないことを祈りつつ、いまだにおのが正体を把握し切れていないこの私は、性懲りもなく幕開けし、愚かさを象徴して止まぬ世界大戦の気配がぶり返した、再来寸前の暗黒の時代へと、有効性を危ぶまれて久しいペンを矛に、老いの一徹を盾にして、人類が宿命的に背負う魂の重荷の軽減をほんの僅かでも図るべく、堂々と胸を張って乗りこんでゆくつもりである。

 

忘れてならないのは、文学自体が永遠の命と、それに伴う無限の可能性を具えていることだ。

死んでゆくのは、文学を隠れ蓑にしたり、文学を商売の道具にしたりする、従来型の反芸術的な関係各位のみ。

文学と呼べる正真正銘の文学は、依然として本来在るべき細々とした姿ながらも、どうにか現世を生き抜こうと懸命に足掻く、一個の独立した存在者たる弱者と共に、信じられないほどしぶとく息づいている。

そして私は、最後の書下ろし長編小説「風死す」を乗り越えて、残り少ない寿命を小脇に抱えながら、自分自身もまだ完全には把握し切れていない、次なるまばゆいステージへと、肉体の衰えに最小限対応できる、一年に一冊というペースで余生を着実に刻んでゆくつもりである。


丸山健二

いぬわし書房

作家・丸山健二が主宰する出版社。丸山健二作品や真文学作品の出版、および丸山健二の活動状況をお知らせします。

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