WORKS

みなさん、お疲れ様です。

なんと、3号です!

今号には、今年の2月に開催した主宰の講演会のテキスト起こしを入れてみました。

noteはこちらから


編集後記にも書いたのですが、

次号から読者投稿ページを作りたいと思っています。

「WEB シンブンガク」への感想やご意見、主宰に聞きたいこと(回答します)、文学批評、身のまわりで起きた気になる出来事などなどを、いぬわし書房のメールへ送っていただきたく(ペンネームをお忘れなく)、お願い致しますm(_ _)m(←始めて使ってみましたが、いかがでしょう? 若いふりしてすみません)。

お送りいただいた投稿は、僭越ながら管理人がセレクトさせていただきまして、「WEB シンブンガク」に掲載させいただきます。投稿文はもちろん主宰にも読んでもらいます。

ページのイメージは、「本の雑誌」の読者投稿コーナーの「三角窓口」です。ご存知ですよね(汗)。

読者の方とのコミュニケーションが少しずつ広がってくれたら、と思っています。

みなさんの投稿をお待ちしています!


さて、甲斐性なしのため実家に戻って3ヶ月が経ちました。

高校卒業してから40年近く東京暮らしだったので、大いに不安でしたが、主宰の励ましもあり、ようよう落ち着いて参りました。

もっと本を出していけるよう頑張りますので、今後ともいぬわし書房を何卒よろしくお願い致します。


昼夜の寒暖差が激しい日が続いています。みなさま、くれぐれもご自愛ください。


管理人

来る7月6日(日)、今年2回目のWEB講演会を開催します。

モデレーターとして大槻慎二氏(田畑書店社主)をお迎えし、

「夏の流れ」「ときめきに死す」「河」「水の家族」「千日の瑠璃」を中心に

丸山文学の「進化」と「深化」の過程を探っていきます。

料金は無料で、先着50名様となりますので

下記のメールアドレスからお申し込みください。


【概 要】

丸山健二塾PRESENTS第2弾「丸山文学の進化と深化を語る」

日時:2025年7月6日(日)13時~14時30分

会場:オンライン開催です。Zoomを利用します。

定員:先着50名様

 ※定員となり次第、締め切らせていただきます。ご了承ください。

料金:無料

出演:丸山健二/大槻慎二(モデレーター)

お申し込み先:inuwashi.shobo@gmail.com

 ※お申し込みいただきました方には折り返しメールを返信致します。


皆様のご参加をお待ちしております。


管理人


みなさん、お疲れ様です。

早速ですが、主宰が奥様と半生を振り返ったエッセイ『つれあい』(上下)を書きました。

noteで公開しています。以下からぜひご一読いただければ幸いです。

『つれあい』(上巻)

『つれあい』(下巻)


本当は本にしたかったのです。

奥様の写真も数十点いただきました。

主宰がレンズを通して見つめる奥様の表情が素敵で、お二人の関係が永遠のように見えます。

しかし、noteでの公開を決めたとき、写真の掲載は諦めました。

管理人の力不足です。すみません。


でもいつか、本にしたいと思っています。

(管理人)


追記:本文から2つ抜粋させいただきます。


 できることなら私を拒絶してもらいたかったのです

 少なくともこんな危険人物には眉を曇らせる瞬間を見せてほしかったのです

 そうすれば私は身の程を知ってそれ以上の接近は考えなかったでしょう

 そして心置きなく無難ではない道へと突き進んでいたことでしょう

 あげくの果てに当然の報いとしての破局を迎えて早死にしていたことでしょう

 運命のやり口は皮肉にあふれています

 彼女は私の正体に気づいていながらまるごと受け容れたのです

 要するに

 ならず者や無法者に強く魅せられた外れ者を拒まなかったのです

 こんな救いがたい男をほとんど躊躇なしに歓迎してくれたのです

(上巻より)

 やがて寿命が尽きるという常識中の常識も

 まだ実感される機会がほとんどなく

 社会から著しく逸脱した暮らしを送る

 はみ出し者としての私たち夫妻は

 ありふれた疎外感に苛まれることなく

 浮き世を生きている実感を楽しんでいました

 明日の人生の展開へ思いを馳せることもなく

 世界が向かう先にいかなる悲劇が待ち構えていようと知ったことではなく

 自由には付き物の不安定な暮らしを存分に堪能していたのです

 それは敷石の拡大と共に揺るぎないものと化し

 ……とそのような錯覚を強めながら

 一介の人間として授けられている過酷な条件をまったく意に介さず

 「バカ夫婦」としての在り方に満足し切っていたのでしょう

 私たちにとって人生は冗談そのものでした

 ありとあらゆるしがらみにがんじがらめにされている世間の人々の右往左往が

 果たして必要なのかどうかさえも理解できなくなっていました

 そして私はそれをよしとしていたのです

(下巻より)

春が来ましたね。

まだ肌寒い日もありますが、西日本は桜が満開。管理人の庭では山ツツジが花開きはじめています。この前まで居着いていた一羽のヒヨドリは消え、アゲハチョウが舞い、雑草が……。

さて、「WEB シンブンガク」、2号をnoteで公開しました。

丸山先生の「白鯨物語」の連載に加え、新たにお二人の書き手をお招きし、少しずつ文芸誌の体を為してきています。

ぜひご一読いただければ幸いです。

noteのURLは以下になります。

https://note.com/maruyama_kenji/m/m05a0cb31d388


「WEB シンブンガク」では、意欲的かつ挑戦的な作品もどんどんと発表していきたいと思っていますので、何卒よろしくお願い致します。

管理人

みなさん、お寒うございます。

今日サロンで「野菜が高い!」と叫んでしまった管理人です。

優しい視聴者の方に「カット野菜は安いよ」と教えていただきました。明日から使います。


さて、長らく温めすぎた企画「WEB シンブンガク!」をnoteで創刊号を公開しました。

「WEB シンブンガク!」は、丸山先生の「白鯨物語」再修正版の連載、丸山健二塾の塾生の作品、それに加えてコラムやエッセイ、さらに文学に意欲的な方の作品を掲載してゆく、言葉を駆使したエクスプレッション・マガジンです。

実は「シンブンガク」は紙で一度出版しているのですが、なかなか2号を出す力がなく、いよいよどうにかせねばと本日に至りました。

価格は300円とお安くなっておりますので、ぜひご一読いただければ幸いです。

noteのURLは以下になります。

https://note.com/maruyama_kenji/m/m3096e67988f2


今後、さらに作品を増やして、月刊を目指して頑張って参りますので、暖かい目で見守っていただければ幸甚です。

何卒よろしくお願い致します。

管理人


Zoomでのご視聴は定員に達したため締切ました。

みなさん、ご無沙汰しております。

暑すぎた長い夏がようやく終わり、秋もそこそこに、大雪と寒冷の冬が一気に押し寄せてきておりますが、お元気でお過ごしでしょうか?

いぬわし書房主宰の丸山健二は、81歳の誕生日を超えてますます心身ともにパワーアップして、日々雪掻きに励んでいるようです。

庭木の冬支度についてはさすがに最低限に留めているそうなのですが、周囲をぐるりと囲う2メートル以上はある垣根の雪下ろしは、両肩を痛めながらも奮闘されているとか。

雪国の人は本当に強いです。


さて、新年明けまして、2025年2月2日(日)に無料の講演会を開催します。

半世紀に亘り書き続けてきた主宰が、飽きっぽくてせっかちな性格を自認している丸山健二が、今日まで小説家一本で生きてくることができたのか、その本質に迫る内容です。

ご視聴はZoomで可能です。数に限りがございますので、お早めにお申し込みいただければ幸いです。

■概要

【開催日時】2025 年2月2日(日)

      14 時30 分~ 15 時45 分

【講師】芥川賞作家・丸山健二

【リアル会場】近鉄文化サロン上本町(先着30 名様)

       大阪市天王寺区上本町6 丁目1-55 近鉄百貨店上本町店10 階

※「リアル会場」では、スクリーンに投射したZoom映像でご視聴いただきます。ネットが苦手な方は、こちらにお申し込みください。

【WEB 会場】Zoom(先着50 名様)

【入場料・WEB 視聴料】無料

【お申し込み方法】ご希望の「リアル会場希望」または「WEB 視聴希望」を記載し、お名前を明記のうえ、下記のメールアドレスへお申し込みをお願い致します。

inuwashi.shobo@gmail.com

お申し込みいただきました方には折り返しメールを返信致しますが、リアル・WEB ともに定員になり次第、受付を終了致します。またZoom でご視聴の方には、招待URL を追ってお送り致します。


みなさん、お元気でお過ごしでしょうか?

大変ご無沙汰しております。

なが~い夏もようやく落ち着いてきまして肌寒くなって参りました。

秋、あるのでしょうか?


さて、本HPとnoteで連載しておりましたエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から」ですが、

未発表分も含めて、田畑書店さんより単行本となって刊行されます!

久しぶりのエッセイ、新刊でございます。

ご購入いただければ幸甚です。

【Amazonから購入はこちら】

今後とも何卒よろしくお願い致します。


管理人

 八十歳を超えて不思議に思うことがあります。

 覚悟していたにもかかわらず、寿命の短さを痛々しいまでに自覚する瞬間がまったくないのです。若かった頃と同じとまでは言いませんが、やはり未だに時間の感覚が永遠の位置に留まったままなのです。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。曲がりなりにも健康体を保っているからなのでしょうか。そんなはずはありません。風呂へ入るたびに慢性的な膝の鈍痛が再認識され、鏡を前にするたびに皺と染みが増えていることを思い知らされます。老化が急速に進んでいることは厳然たる事実なのですが、なぜか落胆や失望のたぐいに見舞われることがないのです。どうやら妻の認識も同じようです。

 子どもがいないからなのでしょうか。ために、生々しい加齢を自覚できないのでしょうか。それも確かにあるかもしれませんが、すべてとも思えません。

 世間一般の暮らしを送っていないせいで、歳月の捉え方が大幅に狂ってしまったのでしょうか。もしそうなら、願ったり叶ったりのいい事です。

 さもなければ、これはあくまで自分勝手な解釈なのですが、多くの草木と共に命を日々積み重ねていることから発せられた僥倖かもしれません。その意識はなくとも、実際には花々から何かしら好ましい影響を受けてこうした能天気に浸っていられるのだとしたら、言葉は悪いですが、儲け物です。

 当然ながらそういつまでもつづくことはないでしょうが、ともあれ今はこうして生きているのです。そしておめでたいことに、数十年後の庭の設計を本気で考え、生育が極めて遅い苗木をどんどん購入しています。この春にもまた、三十センチにも満たない接ぎ木のマグノリアの仲間を取り寄せて植えました。そしてその花が満開になる将来を本気で想像しているのです。

 文学作品においてもそのありさまです。これが最後と思って書き上げた作品を前に、もう次の執筆に入っているのです。その勢いを中断させ、中止させる条件が見あたりません。いい人生と言えばそうなのでしょうか。

 植えたばかりの〈ブータンルリマツリ〉が、「満開を期待していいぞ」と約束ました。

「それまで何年でも待ってる」と私はあっさり安請け合いをしました。

 するとタイハクオウムのバロン君が、「馬鹿か、おまえは」と、すかさず横槍を入れてきました。

 我が庭にとって、梅雨明けを間近に控えた頃の大雨はまさしく慈雨となります。

 それというのも、地面の下が粘土層ではないために根腐れの心配をしなくて済むからです。むしろ「もっと降れ」と雨雲を煽りたくなるほどなのです。

 この辺り一帯は元河原でした。それが田畑になったのは、開墾した者は農地の所有者になれると、戦前、戦後のお上が奨励したからです。

 その時代には開拓者が簡単に扱える重機などなく、馬や牛を手に入れる資金もありませんでしたから、ひたすら人力に頼っての重労働を余儀なくされたのでしょう。農作業自体が、今では想像もつかないほど過酷なもので、子どもの手を借りても間に合わないほどでした。当時の農民の皮下脂肪のない体が思い起こされるたびに、土に生きるということの凄まじさが蘇ってきます。

 やがて経済的繁栄が訪れ、農機具の普及によって重労働がかなり軽減されました。ところが、人間というのは横着なもので、ひとたび楽な方向へ突き進むと際限なくそっちへ転がってゆき、しまいには農業自体を忌み嫌う若者が増え、都会へ出て行けば土にまみれずに済むという、ただそれだけの理由で離郷者が続出しました。その結果と、悪政としての農政の欠陥が相まって現在の農業不振を招いたのです。

 周りは年寄りばかりです。それも後期高齢者が目立ちます。休耕田も増える一方です。少なくともこうした土地に未来の輝きは見あたりません。

 そういった深刻な状況のなかで私は、腹の足しにもならない園芸なんぞを楽しんでいます。死ぬのを待つような人生の後半生を忌み嫌って、執筆と作庭にひたすら打ちこんでいるのですが、しかし、これが人間本来の生き方であるとは言い切れない自分をも併せて感じています。

 もちろん、時代を比較したところで何も始まらないことは承知しています。

 要するに、今の自分が今の時代を精いっぱい生きるほかないのです。

 歳月は確実に流れています。時代もまた然りです。

 それが証拠に、私も妻もそれなりに老いました。でも、タイハクオウムのバロン君は命の絶頂期へと向かって突き進んでいます。そんな私たちを取り囲む好みの草や木も、生き死にの摂理に忠実に従っています。

 ともあれ、この世に存する限りは逃げ場を完全に失うことなど絶対にあり得ません。

 月の色に染まった夜が、官能的な痛みを伴う闇が、またしてもひたひたと押し寄せてきて、すべての生き物に寄り添う固有の意味を優しく覆い隠してくれるのです。

「それでいいのでしょう」と蓮華岳が慰めてくれます。

「それがこの世における命の在り方というものでしょう」と蟻が断言しています。

 金色を帯びた虹色の輝きを放つコガネムシが、絶好調を迎えつつあるワイルドローズの花に潜りこんでいます。

 獲物を念頭に置いたジョロウグモがせっせと糸を吐き出しながら、ほぼ限界の大きさの罠を仕掛けています。大小さまざま、色とりどりの蝶が、副次的な効果のために庭の引き立て役も務めています。

 気の早いトンボが羽虫を狙って集まってきています。

 初夏の昼下がりがきらきらしています。

 そしてこの庭の製作者たる私は、独断のきらいがある幻術者を気取って、感情の赴くがままに陶酔と恍惚を貪っています。

 幸福がここにあふれ返っています。天国とはまさにここなのです。

 自然の摂理がもたらす心地よい秩序が青空の彼方へ消散してゆきます。

 理性が冴え返る時間は無用です。

 すでにして私と妻とタイハクオウムのバロン君は永遠を把握した気分に浸っており、三者のささやかな睦み合いが頂点に達しかけています。

 心も魂もまるごと陽光に任せきって、精神の防壁を悉く投げ出しているこのひと時がたまりません。

 無用の長物たる人生設計などは惜しげもなく捨て去りました。

 春鳥に入れ替わりつつある夏鳥が集まって清談に時を過ごしています。

 パトスは後退したところへエトスが割りこんできました。

 まださほど熱くはない風が、論点を外れた議論を展開して人生の哲理なんぞを説いています。

 夜には派閥間の暗闘が絶えないカエルたちも、今は絶対的実在から離れて、葉陰にじっとうずくまっています。

 いい日です。杞憂のかけらも見あたりません。精神の破産など思いも寄りません。たまにはこんな日もあっていいでしょう。

 庭の外へ一歩出るや、嘘偽りの塊が灰汁色の世間を暗示して止みません。絶対的実在なるものの片影すら認められないありさまです。

 それでいいのです。この世は夢です。三次元のホログラムなのです。

 ですから、軽々に見逃してきた真理のたぐいを惜しんでいけません。

 始まったばかりの七月が歓喜の歌を控えめに唄っています。

「意思の疎通を欠かさないでくれ」と万物が頼んでいます。

「絶対的実在なんぞを信じないでほしい」と濃い紫色のクレマチスが願っています。

 作庭と執筆が時の流れをさらに速めます。

 一年などは、あれよ、あれよと言う間に過ぎ去ってしまいます。

 そして背後に残されたのは、二百数十冊もの著書と、数百もの草木で埋まった庭と、未だにどう過ごすべきであったのかよくわからない、たった一度の人生と、半世紀余り暮らしてきた妻と、今年七歳になったタイハクオウムのバロン君です。

 良い意味でも悪い意味でも、夢心地とはまさにこのことでしょうか。現実とはとても思えない瞬間をたびたび感じます。

 掠り傷程度の、不幸とは呼べない不幸に見舞われたことが幾度かあっても、幸いにして洪水や地震や津波や火事や大病といった大きな災禍には巻きこまれませんでした。それだけでも上等ではないかと思うことにしています。

 もうひとつ、文壇とやらのいかにも日本的な陰湿さが醸しつづける、私のような性分の者には著しく肌が合わない雰囲気に、最小限度しか染まらずに済んだことが救いと言えば救いでしょうか。しかも、今ではそんな異様な世界から完全に身を離して、ほぼ思い通りの文筆活動に専念できているのです。遅きに失したとはいえ、藝術に携わる端くれとしては当然の純粋な生き方を得た今では、過去に溜まった後悔のたぐいがきれいに払拭され、跡形もなく帳消しにされています。

 そのことが庭にも作品にも色濃く反映されて、日本語の持つ稀有な魅力が、まだ充分とは言えないまでも、かなりの度合いで我が文章に発揮されつつあるようで嬉しく思います。もちろん、これしきの庭では、これしきの文学作品では、とても満足できません。できないからこその止めない理由と生き甲斐が、切り子ガラスのごとき輝きを放つ美の世界へと導いてくれるのでしょう。

 無礼を承知で言います。日本文学を庭にたとえますと、「おばちゃんガーデニング」か、良くて形式主義に凝り固まった「日本庭園」のレベルであって、残念ながら、進化と深化を旨とする芸術の真髄に迫るどころか、恥ずかしい限りのナルシシズム一辺倒の前で立ち往生したまま枯れようとしています。つまり、時代から飛び出したブームの域を最後まで脱出できずに衰退を迎えたことになるのでしょう。

 真の文学へと突き進まなかったのは、真の庭園のそれと同様、陳腐な伝統と商業主義に毒されたからにほかなりません。

「そうお堅いことを言うなよ、たかが庭なんだから」と改良園芸種がうそぶきました。

「いやいや、燻し銀の渋さを忘れたら万事休すだぞ」と野生種が言い切りました。

 葉っぱだらけになってしまった夏の庭を彩ってくれるのは、各種のユリです。

 テッポウユリ系よりもクルマユリ系が好きで、オリエンタルリリーの括りで販売されているド派手なユリも、使い方次第で新鮮な驚きと感動をもたらしてくれるために厳選したものを少々使います。

 しかし、所詮はオニユリやヤマユリといった自然系の引き立て役でしかありませんから、さほどの思い入れがなくても、美の基準に適合している場合に限り植えるのです。

 特定の花への愛着は、色や形のほかに、郷愁といった要素も欠かせない条件で、少年時代に山で出会ったその花が胸のどこかに焼き付いたまま、いつしか精神的な宝にまで昇華されているのです。

 たとえば風に揺れるコスモスの花にそれを感じている人は少なくありません。あるいはヒマワリ、あるいはまたアサガオ、そして黄色い小菊などが素晴らしい香りといっしょに深々と記憶に刻まれていたりします。

 とはいえ、自分の庭へ取りこみたいと思うのはユリの仲間が主で、ほかは寄せ付けません。思うに、床しさを突き抜けてしまう切なさが付き纏っている花だからではないでしょうか。

 妻は子どもの頃、父親が畑で栽培した、当時はまだ珍しいグラジオラスやダリアを抱えて帰宅する途中、注目の視線を浴びたことが忘れられないようで、今でもときどきその話をして懐かしがります。だからといって庭にそれを植えてほしいとは言いません。ほかの思い出と重なって胸苦しさを覚えるからでしょうか。

 クルマユリ系でなくても気に入りの野生種がいくつかあり、試しに植えてみたのですが、やはり環境が適していないらしく病気や虫にやられて全滅しました。そして辛うじて残ったのがタキユリで、名の通り滝のように茎をしならせて花を咲かせる風情はまた格別なのですが、残念なことに数を増やしてくれません。

 近年タキユリは絶滅危惧種に近い扱いを受けているという噂を耳にしました。「さもありなん」のひと言で自分を納得させたものです。

 面白いのは、タイハクオウムのバロン君が大型のけばけばしいオリエンタルリリーに異様な関心を寄せて大騒ぎをすることです。熱帯雨林の花を知っているはずもないのに、どぎつい色と形状に潜在的なノスタルジーを刺激されて原始的な血の騒ぎでも覚えるのでしょうか。

「どの花の思い出をあの世へ持ってゆくつもりなのか」とカノコユリに訊かれました。

「あっちへ行けたら、そこでまた新しい花を探してみるよ」と私は答えてやりました。