「生きたまま現世を超える?」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(二十)

 庭に集まってくるさまざまなハナバチたちの羽音の渦に巻きこまれて花殻を摘み取る作業が、おそらく誰にも理解できないであろう至福の時を与えてくれるのです。

 不思議な感覚です。根気のいる単調な仕事がなぜこうした充足感を差し招くのでしょうか。傍目からすれば理解できないと思います。

 掛け替えのないその気分をどう表現していいものやら、物書きのくせに、これがなかなか難しいのです。

 癒しを帯びた安らぎでしょうか。それとも、地上にも天国が存在するという確信でしょうか。はたまた、知的な困惑に陥り易い職種にありがちな必然的な欲求としての、立場における束の間の亡失なのでしょうか。

 いずれにしましても、ドーパミンの為せる業に違いありませんが、脳のどの部分がどう反応してそうなるのかについては不明のままです。ここはひとつ永久の謎ということにして逃げておきましょう。

 しかしまあ、そんなややこしい説明などはどうでもいいのです。そうした掛け替えのないひと時を味わっているという確かな実感のみで充分でしょう。

 訪ねてくれるのはハナバチだけではありません。バラにはハナムグリ、そしてブッドレアにはあらゆる種類の蝶が群がってきます。無言のかれらが活発な動きのみで生み出す肯定的な世界観が、庭の華やかな雰囲気をさらに盛り上げてくれ、冬枯れのあまりに寂しい空間を全否定し、これぞ本来在るべき姿の空間であると声高らかに宣言しています。

 「この世は果たして生きるに値するのか?」という黴臭い哲学的問い掛けが割りこむ隙間など微塵もありません。

 一日花が多いために手を休める暇がなく、全盛期には朝から夕方まで花殻摘みに没頭します。汗だくになって庭を這いずり回っている私にはお構いなしに、お姫さま気取りの妻がコーヒーなんぞを飲みながら、デッキの上から花盛りの眺めにうっとりしています。内弁慶のタイハクオウムのバロン君も、いつもの意味不明な絶叫とはひと味違う、都合のいい解釈をすれば感動の雄叫びとなる大声を、二重ガラスの窓を易々と貫く勢いで発しています。

 「生きながらにして現世を超えられるかも」と言ったのは、もうひとりの自分です。

 「恋に身を焼く淫らな魂と比べるんじゃない」と言ったのは、最盛期の庭そのものです。

いぬわし書房

作家・丸山健二が主宰する出版社。丸山健二作品や真文学作品の出版、および丸山健二の活動状況をお知らせします。

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