「たまにはお堅い話でも」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(三十八)
作庭と執筆が時の流れをさらに速めます。
一年などは、あれよ、あれよと言う間に過ぎ去ってしまいます。
そして背後に残されたのは、二百数十冊もの著書と、数百もの草木で埋まった庭と、未だにどう過ごすべきであったのかよくわからない、たった一度の人生と、半世紀余り暮らしてきた妻と、今年七歳になったタイハクオウムのバロン君です。
良い意味でも悪い意味でも、夢心地とはまさにこのことでしょうか。現実とはとても思えない瞬間をたびたび感じます。
掠り傷程度の、不幸とは呼べない不幸に見舞われたことが幾度かあっても、幸いにして洪水や地震や津波や火事や大病といった大きな災禍には巻きこまれませんでした。それだけでも上等ではないかと思うことにしています。
もうひとつ、文壇とやらのいかにも日本的な陰湿さが醸しつづける、私のような性分の者には著しく肌が合わない雰囲気に、最小限度しか染まらずに済んだことが救いと言えば救いでしょうか。しかも、今ではそんな異様な世界から完全に身を離して、ほぼ思い通りの文筆活動に専念できているのです。遅きに失したとはいえ、藝術に携わる端くれとしては当然の純粋な生き方を得た今では、過去に溜まった後悔のたぐいがきれいに払拭され、跡形もなく帳消しにされています。
そのことが庭にも作品にも色濃く反映されて、日本語の持つ稀有な魅力が、まだ充分とは言えないまでも、かなりの度合いで我が文章に発揮されつつあるようで嬉しく思います。もちろん、これしきの庭では、これしきの文学作品では、とても満足できません。できないからこその止めない理由と生き甲斐が、切り子ガラスのごとき輝きを放つ美の世界へと導いてくれるのでしょう。
無礼を承知で言います。日本文学を庭にたとえますと、「おばちゃんガーデニング」か、良くて形式主義に凝り固まった「日本庭園」のレベルであって、残念ながら、進化と深化を旨とする芸術の真髄に迫るどころか、恥ずかしい限りのナルシシズム一辺倒の前で立ち往生したまま枯れようとしています。つまり、時代から飛び出したブームの域を最後まで脱出できずに衰退を迎えたことになるのでしょう。
真の文学へと突き進まなかったのは、真の庭園のそれと同様、陳腐な伝統と商業主義に毒されたからにほかなりません。
「そうお堅いことを言うなよ、たかが庭なんだから」と改良園芸種がうそぶきました。
「いやいや、燻し銀の渋さを忘れたら万事休すだぞ」と野生種が言い切りました。
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