「天然記念物であらせられるぞ!」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(二十三)

 数年前の真っ昼間の出来事です。

 ふと庭へ目を転じて仰天しました。なんとニホンカモシカの訪問ではありませんか。

 もちろんこうした山国ですから、あちこちの山林では幾度も見かけていました。しかし、いくら田舎町の田園地帯とはいえ、ここでも一応は住宅地なのです。キツネやタヌキならまだしもニホンカモシカの登場とは驚きで、何しろ数十年間の暮らしのなかで初めての経験だったのです。

 すぐさま妻を呼んで一緒に珍客を眺めました。無類の動物好きの彼女も、さすがにそのときばかりは相手の大きさと気高さに圧倒されて、いつもの危ないほど気安い態度をひっこめたままでした。曲がりなりにもシカの仲間ですから角を具えており、だしぬけの突進にでも遭ったらひとたまりもありません。

 そいつは私たち夫婦に向かって、いかにも見下したような、こんな意味を込めていそうな視線を投げ、じろりとねめつけました。

「余をなんと見る。天然記念物であるぞ。人間ごとき分際で、その馴れ馴れしい態度はなんたる無礼。頭が高い。控えおろう!」

 なんと言われようと紛れもない事実なのですから、一目置いてやっても構わないと思いました。その途端、そ奴が我が庭の植物をむしゃむしゃ食べていることに気づいたのです。まるく刈りこんだ、いわゆる玉キャラの若芽を歯と舌を器用に使ってむしり取っていました。

 さすがにこれは捨て置けないと思い、追い払うために接近を試みたのです。でも、そんなことで動じるありふれた野生動物ではありません。気位が高過ぎてどうにもならないのです。

 そこで、突発的な反撃を警戒しながらもさらに近づき、「あなたさまには国有地たる森や山がふさわしいでしょうから、そちらへお引き取りください」などという意味を込めて、威嚇の声を発してみたのです。併せて、両腕を大きく広げました。

 すると、ややあって田んぼの方へと移動を始め、権威とも権力ともいっさい無縁で生きてきた私たち夫婦に冷ややかな一瞥を投げつけ、「ひとまず帰ってやるからありがたく思えよ」と言わんばかりの傲慢な態度を保ったまま、国立公園へと通じる河原をめざして悠々と肢をくり出し、白昼夢の一部を置き土産にして去って行きました。

「なんだ、あの横柄さは。ひと昔前だったら人間に食われていたんだぞ」と腹立ち紛れに呟いたのは私です。

「今度きたら食パンをあげる」と興奮の口ぶりで言ったのは妻です。

いぬわし書房

作家・丸山健二が主宰する出版社。丸山健二作品や真文学作品の出版、および丸山健二の活動状況をお知らせします。

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