【連載】ときめきの鉱脈〈2〉(西日本新聞2020年10月7日朝刊より転載)
作家・丸山健二(76)のデビューは鮮烈だった。倒産寸前の勤務先でふと思い立って書いた初めての小説で、いきなり芥川賞を手にした。1967年当時、史上最年少での受賞だった。
受賞作「夏の流れ」は刑務官と死刑囚の緊迫した日々を、刑務官の平穏な家庭風景と対象的に描く。余計な心理描写がない乾いた筆致を審査員の井上靖は「爽快さを感じられる」と評したが、本質を突いていたのは三島由紀夫だった。
「男性的ないい文章。一面、『してやったり』という若気も出ている」
今年7月、丸山は22歳で書いたこのデビュー作を半世紀ぶりに改稿し「新編 夏の流れ」として出した。
「恥ずかしくて読み返せない、さりとて全面的に書き直せない、その兼ね合いを縫った」
丸山を小説の世界に向かわせたのは、突き詰めれば「復讐」だった。安月給の会社、自分を見限った両親、安保闘争に狂乱する社会にいらだち、そして何より漫然と流される自分自身に見切りをつけたかった。芥川賞の記者会見でマスコミの質問攻めに合いながら、心の奥ではこう叫んでいた。「ざまあみろ」
1943年、丸山は長野県で国語教師の父と教え子の母の間に生まれた。不思議な記憶がある。5、6歳くらいのころ、あぜ道に寝転んで父が畑を耕す姿をぼんやり見ていたら「ポカッ」という音が胸に響いた。
「胸に風穴が空いた瞬間だった。この世は生きるに値しないのでは、という冷たい風がたえず吹き込んできた」
大人に歯向かう「こまっしゃくれたガキ」に育ち、小学3年から特別支援学級に入れられ結核や障がいがある子どもと過ごした。
中学ではケンカに明け暮れ、高校は停学処分になった。父の本棚を気まぐれにのぞいては「インテリの悶え」のような恋愛小説に反発し、メルヴィルの「白鯨」やホフマンスタールの「騎兵物語」に別天地の凄みを感じた。
底なしのむなしさと、えたいのしれない暴力性が極端な陰陽を描いて体に渦巻いていた。それは戦後の空気と戦争の余韻を背負い込んだ、戦中生まれの宿命的なアンビバレンスだったかもしれない。突貫工事の平和も民主主義も何もかも、まっぴらだった。
初期の硬質な作風には、東京の商社の電信課でテレックス・オペレーターとして電文を作成していた経歴が生きている。明解で簡潔な文体はハードボイルド調ともいわれ、文壇で新鮮に迎えられた。
しかし丸山は群れを拒んだ。権威と酒とうわさ話で回る文壇は軽蔑してきた大人社会の一断面に見え、自己憐憫や堕落的な私生活の告白に終始した文学は「生まれてごめんなさい」と言いたげだった。会社員あがりで「世間のすれっからし」を自覚していた丸山は、「生まれて文句あるか」と啖呵を切りたかった。
芥川賞受賞後の第1作「雪間」では故郷・信州の雪景色を舞台に、祖母の死に照らされる生々しい生の感触を描いた。8千部のうち半分が返本になった。一夜で作家になった芥川賞の夢からはとっくに覚めていた。時代は政治の季節。通りでヘルメット姿の学生たちが石を投げ、棒を振り回して警官隊と「革命ごっこ」をしていた。文壇を、東京を離れたかった。
「冗談はここまで」と思いながら、東京の3畳間のアパートで書き続けた。68年、初の長編「正午なり」で都会と田舎町のコントラストの中に青年の衝動を描き、自らも故郷・信州へと去った。「田舎に行けば終わりですよ」と引き止める編集者の声を背に受けて。
70年の秋の終わり、学生に檄を飛ばしていた三島由紀夫が割腹自殺を遂げた。テレビ中継で三島が死の直前、さかんに舌なめずりしているのが気になった。極度の緊張と自己演出のほころびが痛いほど伝わり、「作家が作品の前に躍り出てしまった」と思った。
作品で言葉を尽くす。それが作家ではないのか。そう煩悶しながら、信州の山里の冷気が胸の風穴に一段と染みた。
(平原奈央子)
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