「命の証ってこれのこと?」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(三十)
春を予感させる日がつづいたかと思うと、いきなり大雪が降って冬へ逆戻りです。
毎年のことですからそれなりの覚悟ができているつもりでも、やはり挫折感を伴った失望感は禁じ得ません。
しかしまあ、積雪がどうであろうと、なんといっても三月には違いないのですから、除雪作業の重苦しさを意識するほどではないのです。放っておけばすぐに融けてしまいます。
問題なのは庭の植物たちの狼狽振りで、他人はむろん、植物を動物のようには見ない妻にも、南国にルーツを持つタイハクオウムのバロン君にもわからないでしょうが、この私にはそれが理解できます。というか、長年の経験の積み重ねによって少しずつ感じられるようになってきたのでしょう。
膨らみかけていた蕾が途端に身構えて、開花への道筋を一旦閉ざし、天候の様子を注意深く窺います。つまり、時として敵に回ることもある自然の影の正体をすでにして承知しているのでしょう。しかも、同じ空間に身を置く同志として、目には見えぬ連帯感をも持ち合わせているらしいのです。
そしてそのせいか、かなり膨らんだ蕾が遅い雪や霜などによって腐ると、なんとなく草木の全体が暗く沈みこんだ印象を覚えてしまい、生の萎縮によって、錯覚のひと言では片づけられない印象がひしひしと伝わってくるように思えてなりません。
それに併せて、どういうわけか、未熟な人間としての自分が運命に見捨てられてゆく末路へと傾きます。「要するに生きるとはこういうことなんだろうなあ」という、「常に悲劇と背中合わせなんだろうなあ」という、諦め半分自棄半分の居直りを差し招くのです。
午前中までの冬が午後にはもう春へと戻っています。陽光のきらめきが何よりもそれを鮮やかに証明しています。息も絶え絶えだった生きる意味が、見事再生復活を果たしました。冬鳥の姿が見られなくなり、春の鳥の気配が濃厚になってきています。
湯気といっしょに土の香りを立ち昇らせる地面には、この世は生きるに値すると、そうはっきり書かれています。これぞ春の底力というものなのでしょう。
凍死を免れたアメリカナツツバキがそっと呟きました。
「何が起きるかわからない、それが命の本質であって、生きる証でもあるんじゃないの」
今年の開花が不可能となった洋種のシャクナゲが反撃の言葉を天に向かって投げました。
「来年もあるし、再来年だってあるじゃないか。生きてさえいればチャンスは無限だよ」
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